強引に喫茶店に誘われて、三時間。すごく疲れていました。そしてわたしが「とりあえず」したこと。
「とりあえず、さ。ここに住所と氏名だけ書いておこうか」
男の人はグッチのバッグから書類を取り出し、わたしに差し出しました。口調は、ごく軽いものでした。
「とりあえず」って怖い言葉です。
その一言だけで、次に起こる出来事が、そんな重大な結果を生むって気がしなくなるんです。言葉が生む錯覚です。
少し試してみましょうか? あなたの目の前に、赤いボタンがあります。そばにいる男が、軽い調子で語りかけます。 「とりあえず、さ。このボタンを押してみようか」
ほら、こう言われると、なんとなくそのボタンを押してしまいませんか? 深く考えずに押してしまいませんか?
そのボタンが核兵器の発射ボタンだったとしても、そうと知らなければ?
そしてわたしは、押したのです。
住所、氏名、そしてハンコは持っていなかったので、母印をその代わりに押しました。
渋谷の交差点で足を止め、この人に強引に喫茶店に誘われてから、三時間ぐらいは経過していたと思います。
すごく疲れてました。
それから一か月ほど経ったでしょうか。
サインしたのも忘れていたころ、グッチの男がまた連絡をしてきたのです。撮影の日取りが決まった、と。
そのときになって初めて、AVの撮影だと知ったのです。
AVに出るなんて言ってません、そんなの聞いてないです、恐怖で逃げるように通話を切ろうとしたんですが、相手はそうさせませんでした。
「契約書に判を押したよね?」
わたしの人生は終わった。目の前が暗くなりました。
幸いだったのは、わたしに良い友人がいてくれたことです。
高校の時からの親友は、LINEの返事がないのが変だと思い、わたしの部屋を訪ねてくれたのです。そして事態を知りました。
彼女はわたしを励まし、勇気づけました。
きっとなにか手立てはあると。
おびえているわたしの代わりに、友人が連絡をとってくれました。これ以上、悪いことなんて起きないんだから、と励ましながら。
すぐにぱっぷすの人が対応してくれて、シェルターを手配してくれました。安全が確認できるまで、そこで過ごしました。
あれから二年経って、わたしは一般企業に就職し、普通のOLとして暮らしてます。絶望のなかで過ごした、あの数日間は、なんだったのだろうと振り返ります。
あれはただの夢だったんだろうか。
*
連絡を取ろう、相談をしてみよう。
そう決意したあなたに、かならず道は開かれると思います。
どうか運命を、変えてください。
遠くのあなたへ。
この言葉に用心して欲しいと。そしてもし押してしまっていたら、「とりあえず」で判を押してしまった自分を責めないで欲しいと。