わたしがいま巻き込まれているのは、ニュースで報道されたAV強要なんじゃないだろうか。
わたしの手元に、一枚の写真があります。
フレームで飾られた写真のなかでは、高校の制服を着て卒業証書を手にしたわたしが、ぎこちなく笑っています。
そのそばではお母さんが、誇らしげに笑っています。わたしの進学先が有名私立大学だったのが、お母さんには自慢だった。
あの日、わたしは絶望的な気分で、この写真を見てました。
Aちゃんはお姉ちゃんだから、しっかりしてるね。
母はまるでわたしに言い聞かせるかのように、事あるごとに繰り返しました。
真面目で、頑張る、しっかりした子。
そう褒められて嬉しかったけれど、同時に苦しかった。だっていつだって真面目で、頑張って、しっかりしたいい子でいないといけないから。
繁華街を歩いていたとき、呼び止められて、モデルにならないかとしつこく言い寄られました。話を少し聞くだけでいいから、と。
喫茶店で話を聞くだけで終わるはずだったのに、気がついたら、スタジオで証明写真を撮るところまで話が進んでました。
どうしてそこまで断り切れなかったのか。あなたがしっかりしていれば、付け込まれなかったのでは?
人はそうわたしを責めるかもしれないですが、お姉ちゃんはしっかりした良い子で通っていたんです。本当です。まるで大人みたいな敬語を使う子ねって、親戚の人のあいだで評判だったんです。
あの日だって、きちんとした受け答えを心掛けて、穏便に断ろうと努めていた。
できなかったんです。強引な話の進め方のまえには、きちんとした受け答えなんて、意味がなかった。
わたしが褒められていた「しっかり」は、騙すことを目的とした人のまえには無力でした。むしろ「しっかり」を逆手に取られていたと知ったのは後のことです。
スタジオでは何人もの大人の男の人に囲まれ、それだけでわたしは怯えました。
怖かった。
モデルとして営業するための証明写真のようなものだという話でしたが、あれを着てこれを脱いでと言われているうちに、少しずつ肌を露出する割合が増えて、いつの間にか水着を着ないといけないような流れができている。
そんなものに着替えたくない。絶対に嫌だ。
そう思うのに、カメラを手にした人が、わたしを急かします。
「早く着替えてきて」
「どうして着替えないの?モデルになる人なら、みんなやってることなのに」
カメラを手にする男の人が、周囲の人にぼやいてます。
「どうなってんの、なんなの、この子」
肩でため息をついて、そばにいる人たちと目配せで会話する。
——なんて常識のない子だろう。一度承諾してスタジオにやってきたはずなのに。無責任で、人の迷惑を顧みない子だ。もう二十歳になるっていうのに。
スタッフたちの目が、わたしをそう責めているのが読み取れるのです。
事務所の内部資料にするだけだからという説得で、わたしは身体がほとんど隠れない、まるで紐みたいな水着を着て、カメラの前に立ちました。そしてわたしを責める目にいたたまれなくて、トップレスの写真も撮らせてしまったんです。
出来上がりを見せられて驚きました。
泣きだしたい気持ちをこらえて撮られた写真は、いままで生きてきて撮られた写真のなかで、いちばんいい笑顔を浮かべていた。
まるで、裸になったのが楽しくてたまらないような写真。解放感からはしゃいでさえいるみたい。
どう見ても、そうとしか見えない。
何度も撮り直しを命じられ、一生懸命笑っているうちに撮れた写真です。いい顔だねって褒められて、一生懸命笑った。そして常識のある子だって思われたくて、笑った。
脅しは翌々日には始まりました。
この写真を親に見せてバラしたら、親御さんはどう思う?
わたしには、自分の笑顔が凶器となっていました。自分の生命線を絶つ笑顔です。
だから死のう、って思ったんです。急いで死のう、って。
お父さんやお母さんが信じてくれている、真面目で、しっかりした、頑張る子。そう思っていてもらえるうちに、はやく死ななきゃ。
卒業式の写真を見ていて、お母さんが憎かった。
お母さんがわたしを、真面目で、しっかりした、頑張る子だなんて言わなければ、いまだって相談できたのに。どうしてわたしは、真面目で、しっかりした、頑張る子でいなければいけないの? どうして。お母さんに頼ることすらできないの?
追い詰められているうちに、よみがえってきた記憶がありました。
最近流れている、AV強要のニュースです。
わたしがいま巻き込まれているのは、まさに、ニュースで報道されたAV強要なんじゃないだろうか。
ニュースサイトを探しているうちに、この記事を見つけたんです。
AV問題 搾取される“女優” 支援団体に聞く・下
https://mainichi.jp/articles/20170209/k00/00m/040/014000c
どこでぱっぷすと出会ったのかを書いてもらいたいとのことなので、この短い手記のなかですけれど、こうして触れておきます。
わたしを追い詰めたのは「しっかりした」自分でしたが、わたしを助けたのもニュースをこまめにチェックしている「しっかりした」自分だったのです。
あのときは自分を責めて、自分の駄目なところばかり見つめていましたが、いまこうして冷静に振り返ると、自分を褒めてあげたいのです。いちばん褒めてあげたいのは、そうですね、死ぬ勇気がなかった自分です。臆病な自分です。
変に聞こえるかもしれないんですが、そうなんです。
死ぬ勇気なんて、褒めたってしょうがない。そんな勇気があったとしても、いったい何を得たのでしょう。死ねない弱さと引き換えに、わたしは強さを得たんです。それは、生きるために必要な真の力、勇気でした。
ぱっぷすさんに相談して、わたしは辛うじてAV出演から逃れられました。
あのまま死ぬ勇気ばかり振り絞ろうとしていたら、つかみとれなかった平穏で充実した日々を、わたしはいま取り戻しています。自分の勇気を足掛かりにして。
もうすぐ春が巡ってきます。
一年後には卒業です。満開の桜のしたで、わたしはお母さんと卒業の記念写真を撮ってもらうことでしょう。そのときわたしは、どんな笑顔を浮かべるのでしょう。
いつかお母さんに話したいです。
あなたの娘は、本当に自慢できる女の子なんですよ、って。きちんと困難に立ち向かったんですよ、って。強くて、しっかりしてるでしょう?
話せるようになるのはいつかはわからないけれど。
いつか、お母さんに話したい。あなたの娘のことを。